2011/06/11

弘田三枝子、美空ひばりを凌ぐといわせたシンガー

弘田三枝子のシンガーとしての実力をどれほどの多くの方がご存知なのか、年配者であっても「ポップスの女王」といわれたことは知っていても、その多くは歌謡歌手としての彼女しか知らない。ジャズシンガーとして高い評価を受けていたことは以外に知られていないように思う。個人的想いも含めジャズシンガー弘田三枝子を紹介する。

「バケーション(1962)」、「悲しきハート(1963)」に代表されるポップスのカバー。平行して歌謡歌手としても活躍し、「人形の家(1969)」はあまりにも有名。アニメ主題歌「レオのテーマ」やCMソング「ワンサカ娘(レナウン)」を歌ったことでも知られている。

1947年に生まれ、10歳に満たない頃から米軍キャンプで歌いはじめ14歳でデビュー、翌年に「バケーション」が大ヒットし一躍スターに。しかし彼女が求めていたのはジャズ。1965年に18歳という若さで世界三大ジャズフェスティバルの一つ「ニューポート・ジャズ・フェスティバル(現:JVC Jazz Festival Newport, R.I.)」に出演し好評を得た。これは日本人歌手としてはじめてのこと。

翌年19歳でリリースしたアルバム「ニューヨークのミコ-Miko in New York(1966)」は、日本の音楽史に名盤として残すべきと個人的には思っている。19歳と思えぬ完成度の高さ、美空ひばりを凌ぐといわせるだけのことはあると感じさせられる。またバックを務めたのが一流のミュージシャンであったことも当時の彼女の才能を最大限引出したといえるいだろう。
Billy Taylor(Pf)、Ben Tucker(Bs)、Grady Tate(Ds)

「I wish I knew how it would feel to be」

歌謡界での活躍は続くが1970年代に入り歌謡界も変化して行く。そんななかジャズシンガーとしての活動が主となってくる。70年代は彼女にとってシンガーとして円熟味を増して行った10年でもあったが、80年代に入り姿を見ることがなくなった。

数年前から時折テレビなどにも登場するようになったが、残念ながら彼女の歌は、自身の耳に残るものとはほど遠いものであった。しかし、彼女が不世出のシンガーとして残したものは輝き続けると思っている。以下に彼女の魅力が発揮されているものを紹介する。是非、聞いていただきたい。

まだ若さが残るが音楽を掴むフィーリングといえばよいのか、才能と上手さは十分に感じる1曲(なんだか調子は良くなさそうだが)。バックが原信夫とシャープ&フラッツなのが嬉しい。

「Mack The Knife(70年前半?)」

1976年にリリースされたアルバム「My Funny Valentine」に収録された「My Love」。当時人気を博していたジャズミュージシャンたちが参加している。鈴木宏昌のアレンジも見逃せない。鈴木宏昌(Pf)、石川晶(Pr)、村岡健(Ts・Fl)、市原康(Dr)、岡沢章・江藤勲(Bs)、直居隆雄・松木恒秀(Gt)

「My Love(1976)」

個人的に彼女のベストパフォーマンスと思っている1曲。バックには世良譲トリオに、当時圧倒的な人気を誇った高橋達也と東京ユニオンのホーンセクション。ドライブ感ある素晴らしい演奏。アレンジも素晴らしく、おそらく前田憲男。ソロは松本英彦。

「On A Clear Day(80年頃)」(TBS サウンド・イン・S)

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以前、本ブログで同時期に活躍した、不世出のシンガーとして朱里エイコも紹介しています。「自身の才能と歌謡界の狭間でもがいたシンガー

投稿にあたり

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